志村けんさん死去 世代を超えて愛された唯一無二のコメディアン。

コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスでお亡くなりになりました。享年70歳。

高齢高齢と、テレビでは連呼していましたが、まだまだ活躍して欲しかった。

世代を超えてここまで愛されているタレントは、今いないでしょう。まさに、喜劇王。

ドリフターズコメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスでお亡くなりになりました。享年70歳。

高齢高齢と、テレビでは連呼していましたが、まだまだ活躍して欲しかった。あなたの死に方はこんな形じゃない。そんな気持ちです。

世代を超えてここまで愛されているタレントは、今いないでしょう。まさに、喜劇王。

加藤茶とのひげダンスは息ぴったりだった

ドリフターズ入りの経緯は、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹やコント55号とザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校二年時に実際に由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが、断られている)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及び、すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。

志村けんを一躍有名にした東村山音頭

「少年少女合唱隊」のコーナーで東村山音頭が誕生した。

1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博し、小学生がこぞって歌っていた。

もちろんこれは昭和の時代の話しです。

私がドリフ時代の志村さんのギャグで好きだったのは「お前、それはないだろう」「志村、後ろ!」「ピッカピッカの一年生」ですね。

子供のころおなかが痛くなるほど笑いました。

その後は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」「天才!志村どうぶつ園」他、と、常に世代を超えて笑いを与えてくれました。

バカ殿様、変なおじさん他様々なキャラクターに扮し、アイーン、だっふんだぁなど多くのギャグで多くの笑いを届けてくれました。

語りだせばまだまだ足りません。

今の40代50代は、特に志村さんの歴史を見続けてきただけに、受け入れがたいものもあるでしょう。

こんな時、湿っぽい追悼番組をやるんですが、まず、TBSはドリフの総集編をやって、フジテレビはだいじょうぶだぁとバカ殿様の総集編をやってほしい。

日テレもテレ朝も同じ。

笑いで志村さんをおくってほしいですね。

 

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